第12回定期演奏会


ごあいさつ


ガーデン プレイス クワイヤ団長 村上 弘

 7月17日、初めてライプツィヒの聖トーマス協会にあるバッハの墓を訪れることが出来た・・・!!
 私事で恐縮ですが、今年2000年はバッハの没後250年ということもあり、例年の「バッハ巡礼」にも増して多くの音楽愛好家などが訪れているようで、ようやくその一人に仲間入りしたという次第。
 今回はその場に立つというだけでなく、28日の命日に1日遅れた、本日の日本での「大法要」に先立って、バッハの墓前でGPCの演奏録音の一部を聞いてもらおうと思い立ち、モテットのカセットを短時間ながら鳴らせてきました。GPCにとってバッハのモテットは、創立以来4年目の前回定期演奏会でやっと全6曲にたどりついた曲たちであるためです。そして本日の大法要についても墓前に報告してきました。
 バッハは「小川(ドイツ語でバッハは小川を意味する言葉でもあります)ではなく大海(メール)と呼ばれるべき」と、ベートーベンがいみじくも言ったようにヨーロッパ各地の何世代にもわたる音楽の集大成のごとき存在で深く広い。今さら言うまでもないことながら、聴けば聴くほど、歌えば歌うほど重みを増してくる存在といえるでしょう。
 今日は何人かの同族者、子息達、さらには来賓者がにぎにぎしく登場します。
 さあ、共にバッハを偲び、その音楽にふれていただきましょう。

大バッハ『250回忌法要』によせて


アマデウス音楽研究所 熊谷 聡

 今から250年前の7月28日、ドイツのライプツィヒでJ・S・バッハが亡くなりました。時間も距離も遠く離れたこの東洋の小さな国で、今日その法要が営まれようとは当の本人も思いもよらなかったことでしょう。
 今年は、節年ということでドイツはもとより、世界中でバッハに関連した催しが開かれています。それらは、ある意味で全てがバッハを偲ぶ法要と言えましょう。250年を経てバッハその人の名前が色あせず、その音楽が現代の我々の心に多くの想いを伝え続けているのはなぜでしょうか・・。

 私事で恐縮ですが、私は東北の小さな町で寺の住職をしております。無論、これまでに多く法要にかかわって来ました。人が亡くなると、その人を偲び、魂の安らかなることを願い、また残された人々の心を慰めるために法要が営まれます。法要は、時を経るにつれ個人を直接知る人も少なくなり、33回忌や100回忌ともなると、もはや故人は数多くのご先祖様の一人となり、世代は移り変わっていきます。
 しかし、バッハが今も世界中の人々の心の中に生き続けているのはなぜか・・と考えたとき、そう、それはバッハの音楽が250年を経て、いや、恐らくこの後何年を経ようとも我々の心に深い感動をあたえてくれるからに違いないのです。
 "音楽"というもの、そこに、どれほど多くの人々があまりに美しい世界をみたことでしょう。そこには、単に音の組み合わせの妙としての美しさだけでは到底説明できない何かがあります。いや"美しさ"とも言い切れない何か。音楽は、時に我々の手の届かない、何か遠くの世界にある尊いものを感じさせてくれるからではないでしょうか。その一つが、作曲者が音楽に託した"想い"です。
 バッハの音楽は、厳格で冷静で複雑な職人技のようなものと言われます。バッハの人柄さえもそのように語られています。しかし、決してそれだけではないのです。そこには、バッハの思いが込められているのです。今回、演奏される音楽のほとんどは宗教曲ですが、例えば"神への想い"を考えたとき、時代も文化も全く違う、ましてやキリスト教の信仰を持たない我々一般的な日本人に、それが理解できるのでしょうか・・。私は、十分に理解できると信じます。バッハはルター派のプロテスタントですが、キリスト教の信者のために、或いは特定の儀式のためだけに音楽を欠いたのではないと確信するからです。バッハは、この世の諸処の雑事とはかけ離れた何か、極めて高い次元の何か(キリスト教において"神"に象徴される何か)を意識していたでありましょうから。
 人々が真摯に"祈る"姿というものは、人間の最も美しい姿の一つです。神なり仏なり対象が何であれ、それらと我々人間とのかかわり方という点で、それぞれの時代や文化、精神世界の構造に差があろうとも、本質的なところで違いは無いのです。祈る人々の思いは同じなのです。同じ一人の人間的視点、共感という点から、バッハが音楽に託した祈りを現代の我々が理解する妨げは何もないのです。バッハの音楽をどう聴き、どう受けとめるか、それは今現在の我々の問題なのです。バッハが音楽に託したものは、現代の我々人間すべてがその内に持っている想いと相通じるものなのです。

◆小川から大海へ
 『バッハは小川(bach)ではなく大海(meer)だ』と言ったのはベートーヴェンですが、彼はバッハの平均律クラヴィーア曲集で音楽の勉強をしました。ベートーヴェンだけでなくモーツァルトもブラームスも、バッハがいなかったら、我々の知っている彼らではなかったはずです。その意味で、やはりバッハは"音楽の父"なのです。
 またも私事で恐縮ですが、私は東北の小さな町の中学校で音楽を教えています。音楽室の壁には有名な作曲家の肖像画がはってあります。皆さんも中学生だったとき、きっと音楽の授業のたびに見ていたことでしょう。そして、それら大作曲家たちに、あるイメージを持ったと思います。ベートーヴェンは、世界中の苦悩を全部背負ったような怖い顔をし、モーツァルトはいかにも天才で無邪気に見え、ブラームスは哲学者然としていたではないですか。さて、バッハは・・変な髪形をしていたなぁ、といったところでしょうか。
 我々は個々の作曲家について、あるイメージを持っているのが普通です。それらは、彼らの生き方や血筋国柄に起因するものとか、肖像画とか、諸処が作用しあってできあがるものです。そして、そのイメージと実際の作品を聴いてのイメージとがリンクしているのが普通です。しかし、作品(作風)に影響を受けているのと同じく、バッハ以後の多くの作曲家の音楽がバッハ無しには存在していないということなのです。
 バッハの家系が16世紀から19世紀にかけて多くの音楽家を輩出したことは衆知のとおりですが、バッハ自身もその家系を誇りに思っており家系図を作成しています。それによると、一族の祖といえる人物は、水車小屋で粉を挽きながら楽器を演奏していた、音楽を愛するパン職人であったそうです。その後、プロの音楽家として宮廷楽士やオルガニストになる者が現れ大バッハの登場となりますが、そのころには親戚中が音楽家でありました。

バッハ家系図

 今夜の法要ではバッハの父親や祖父の従兄の他、バッハの息子たちの作品が演奏されます。バッハ以前であれ以後であれ、それらの音楽はどこかでバッハの音楽と深くつながっていることを我々は確かめることができるでしょう。例えば、今回登場するバッハの息子たちの中で、末息子であるJ・クリスチャン.バッハなどは、もはや作風として父とは大きくかけ離れています。彼はカトリックに改宗し、イタリアやロンドンで活躍しました。しかし今夜演奏される、いかにも"カトリック"なその曲の中にでさえ大バッハが見えるのは私だけでしょうか。
 さて、そのクリスチャン・バッハはロンドンで、まだ8歳のモーツァルトに多大な影響をあたえます。また、モーツァルトは33歳の時にライプツィヒを訪れ、そこでバッハのモテットを聴き、『これは何だ?・・我々が学ばなければならないのはこれだ!』と叫んだと伝えられています。あのアヴェ・ヴェルム・コルプスや、レクイエムはその2年後、モーツァルト最後の年の作品です。ブラームスやベートーヴェンでも、そうなのです。今夜演奏される曲だけでなく、ドイツレクイエムの壮大なフーガや、第九の4楽章の二重フーガが、バッハなくして存在したかどうか・・とも言えるのです。
 そして、メンデルスゾーンにつては、もう一つ。バッハが決して"小川"ではないことを世界中の人々に知らせてくれたという業績を付け加えねばなりません。音楽史上において、メンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の再演がなかったら、我々は大バッハの音楽を知らずに一生を終えるという、信じがたい不幸に遇っていたかもしれないのですから。

◆バッハ、我々の傍らに
 先ほどの肖像画のことですが、髪型はともかく我々がそこに見たバッハは、やはり厳格で、堅い表情をしていました。あの肖像画は彼が晩年に「音楽学術交流教会」という団体の、まあ、芸術院会員のようなものになるとき協会に提出した肖像画なので、威厳に満ちているのです。しかし実は、彼も我々と同じく日々のなりわいの中で多くの雑事に追われ、悩みを抱えながら、しかし家庭の安らぎに包まれて暮らしていたのでした。2つの視点から、そのようなバッハを見てみましょう。家庭の中で、そして仕事上で。
バッハ家系図  バッハには二人の奥さんがおりました。いえ、最初の奥さんは彼が36歳の時に4人の子供を残したまま病気で亡くなったのです。きっと、バッハは途方にくれたことでしょう。しかし、その1年後に16歳も年下の奥さんを見つけました。アンナ・マグダレーナという女性です。ピアノを習ったことがある方なら、この名前に覚えがあるかも知れません。バッハは彼女のために「クラヴィーア練習曲集」を作りました。彼女だけでなく、どれほど多くの人々がこの愛すべき小品集でピアノの練習をしたことでしょう。彼女はとてもよい奥さんであり、また子供たちの母でありました。最初の奥さんに先立たれた不幸はあるにしろ、バッハにとって家庭は最大の安らぎの場であったことは間違いありません。無論、バッハも奥さんを大切にしたことでしょうし、そこにいるバッハは、現代の我々と何も違ってないのです。
 さて、バッハと二人の奥さんの間には20人の子供がおりました。しかし、その半分は子供のうちに亡くなっています。子供たちの何人かは音楽家となり、当時は父よりも有名でした。しかし父としてのバッハは様々な悩みも抱えていました。仕事が長続きしない息子の就職の世話、放蕩息子の借金の尻拭い、嫁に行かない娘、果ては24歳の若さで親より先立つ息子・・。バッハは子供たちを愛していましたから、そんな子供たちのためにしてあげたことは、やはり現代の我々と、そう違ってはいなかったのです。
 バッハは亡くなるまでの30年ほどをライプツィヒで過ごしました。そこではトーマス協会と市の音楽の責任者としての仕事上の立場がありました。名誉ある責任者とはいえ、その立場は基本的に組織に雇われている給与生活者です。しかも、組織(市当局とか協会)との方針の違いによる確執の中で、転職を考えつつも果たせない苛立ちなど、様々な仕事上の困難に悩んでおりました。そのようなバッハの姿は、まさしく現代の我々と重なるのではないでしょうか。
 素顔のバッハは、我々の傍らにいるのです。

 今夜の法要の最後に、バッハ自身の作曲した「葬送のためのカンタータ」が演奏されます。実際のバッハの葬儀は、実に寂しいものであったそうですが、我々の手の届かないどこか遠くにいるバッハに、今夜のカンタータの旋律が届くことを願って止みません。

曲目解説


 17~19Cの3世紀にわたるバッハ家の音楽家たちは、ドイツのみならず、ヨーロッパ各地でその活動を展開し、残した作品のスタイルは様々。J.S.Bachの四人の著名な息子たちも、才能の差はあれ、活動の方向や滞在した土地で培ったそれぞれの個性がおもしろい!Bach一族の計り知れない膨大な遺産に少しでも触れることができて楽しいですゾ!。
 では、Bach一族の各曲について簡単に.....。
 序として、Johann Bach(1604-73) ”Unser Leben ist ein Schatten”は、いかにも律儀で無骨な(北)ドイツ初期バロックのスタイルにのちの”Bach音楽”全般のエッセンスを見ることができます。
 J.Michael Bach(1648-94)は、父の従兄。”Sei, lieber Tag, willkommen”は、新年のお祝いのためのモテットですが、その明るく快活なホモフォニーの曲は開会にふさわしい。
 J.Christoph Bach(1642-1703)も父の従兄で、Michaelの兄。JSBの父は、この非凡な作曲家を写譜していたとのことで、父を通じてJSBに影響を与えていたことは疑いもない。名曲”Ich lasse dich nicht”は単純ながら美しいEchoは絶品(JSBもアレンジしている)。”Füruchte dich nicht”は変化に富んだ構成とソプラノのコラールテーマの美しい挿入は天下一品。
 その子、J.Nikolaus Bach(1669-1753)も、イタリアをあこがれていたのか、Missa Brevisはイタリアン・バロック風の開放的なホモフォニック。リズミックな反復音型等が多用されるtuttiに、ドイツ語でコラールの拡大テーマがかぶるという珍しくもシャレたスタイル。どうやらこの人が「BACH」音列の創始者らしい。(JSBの言)。
 J.Christian Bach(1735-82)のRequiemは、作曲者にとってイタリアが第二の故郷だけあって、パレストリーナ流ポリフォニー。小曲だがステキ。
 Carl Philip Emanuel Bach(1714-88)からは、メゾ・ソプラノのソロによるMagnificatからのアリア。才人のさすがの作品。
 大バッハの2人のオクサンから生まれたる子供は何と!20人!! まさに”律儀者の子沢山”。
 J.C.Friedrich Badh(1732-95)はそのうち、音楽家として大成した四人の息子の中、一番凡才だった(?)ようで(新グローブ事典では、それぞれの記述が、CPEは15ページ、J.Christianは10ページ、J.C.Friedrichはたったの1ページ)、”Wacht auf ruft uns die Stimme”は、精一杯頑張ってもあの程度。しかし偉大なる父(新グローブだの記述40ページ)のコラールをそっくりそのまま借用するとは、どうやら過保護息子だったかも。
 しかしこの”起きなさい”に目を覚まして大バッハ(1685-1750)登場ということに相成りましたゾ。そしていよいよ、大バッハ自身の作曲によるカンタータ106番。オリジナルの、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバの伴奏付きです。

(中島良史)