第23回定期演奏会


プログラムノート


(アマデウス音楽研究所)熊谷 聡

 死‥と、いうものについての視点が、ここ数十年で大きく変わったように思う。古来、死にかかわる事柄については“死者”と“死後”に関心がおかれていた。しかし、最近の議論の中心は今現在の我々が死に対して、どう向き合うか‥避けられぬ死をむかえるまでに、どう生きるか‥に変わってきている。死が死者ではなく、我々生ける者達の問題として考えられるようになったのだ。実は、この考え方の違いを理解することは、ドイツ・レクイエムに込められたブラームスの想いを知るのに重要な示唆を与えてくれる。
 カトリックの伝統的なレクイエムは“主よ永遠の安息を彼らに与えたまえ~”という詞句で始まる。モーツァルトやフォーレなど、多くの作曲家が死者への祈りを込めて曲を書いた。フォーレは父への想いを込め、モーツァルトは自分の死への予感を感じての作曲だったかも知れない。それらレクイエムは、死者と死者のその後に向けられたものである。
 それに対して、ドイツ・レクイエムは“幸いだ、悲嘆にくれる人 彼らこそ慰められるであろう”との詞句で始まる。つまり、ブラームスの目は死者ではなく、今、死に接して人間の儚さを想いつつ悲嘆にくれる、我々に向けられているのだ。今、この世にある我々への慰めと救いこそが、この曲に込めたブラームスの想いなのである。
 カトリックのレクイエムがミサ典礼に基づくラテン語の詞句に作曲されるのに対して、ドイツ・レクイエムは、ドイツ語訳聖書などからブラームス自身が選んだ詞句によって歌われる。“幸いだ、悲嘆にくれる人〜”と始まり“幸いだ、主に結ばれて死ぬ者〜”と結ばれる一連の詞句は、死者を悼む祈りと、我々の悲しみ、人間の儚さへの慰めが一体となっているだけでなく、我々がどう生き、どう死をむかえるべきかを語っている。カトリックのレクイエムの多くが、最後の審判の場を中世の絵画のように劇的に描いたりするのに対し、ドイツ・レクイエムは、普通の言葉で我々に呼びかけてくるのだ。
 一般に、この曲の作曲の動機として、恩義あるシユーマンの死や、母親の死がひきあいに出される。確かに、ブラームスもそれらを意識したであろう。しかし、この曲全体にブラームスが託したものは、もう少し大きなものであったに違いない。質は違うのだが、ベートーヴェンが第九の合唱で、この世のすべての人々に呼びかけたような大きなものと、どこか通じるように思う。ベートーヴェンが生きることの歓喜を歌としたのなら、ブラームスは死への慰めを全人類に語っているのではないか‥。多くのレクイエムが、去り行く者たちへの過去に向けられた歌であったのに対し、ドイツ・レクイエムは、これからどう生きるべきかを思う我々の未来へと向けられたレクイエムなのだ。

◇第一楽章:“幸いだ、悲嘆にくれる人”
 ここでは、ヴァイオリンが全く使われない。ピッコロもクラリネットも、トランペットも無い。高音部を欠いた弦が静かに、深く沈むような音で曲を開始する。
 合唱は涙をこらえている。悲しみのなかに、じっとこらえている。暗く重苦しい音楽にはちがいない。しかし、これこそブラームスだ。息をひそめ、悲しみをこらえ、一つ一つの音をかみしめるように合唱が歌うこの冒頭部分を聴く時、不思議と暗い気持ちや沈んだ気持ちにはならない。穏やかな、そして安らかな気持ちに包まれる。“慰め”とは、このようなものではないだろうか。
 曲は、三部形式をとっており、男声合唱から始まる中間部で、少し明るさをみつけることができるが、再び最初の部分が多少内容を変えて歌われる。最後に、ハープの細やかな、優しさに満ちた音をのこし、曲は静かに終わる。

◇第二楽章:“人は皆草のごとく”
 重く、荘厳な「葬送行進曲」である。長い終結部を持った三部形式の曲で、中間部では穏やかな旋律が歌われ、ハープとフルートが優しくそれを助ける。そして、再び葬送行進曲が戻ってきて、曲は更に厳粛さを増す。ティンパニーが活躍する場面でもある。
 突然、合唱が“Aber~(しかし)”と歌いだし、トランペットが鳴りわたる。ここから終結部に入る。実は、音楽はここを目指して準備していたのである。その詞句は“しかし、主の言葉はとこしえに変わることはない”
 その後、バスのパートに導かれて、合唱が確信に満ちた詞句を歌う。“喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る”

◇第三楽章:“神よ、示して下さい”
 この楽章は、ドイツ・レクイエム全曲のなかでも特に周到に構成された楽章であり、中心的部分でもある。バリトン独唱(詞句が、ここで初めて一人称を用いることにも注目したい)が登場し、合唱と交互に、人間の儚さ、世の悲哀を嘆く。自己の無力を悟り、神に語りかけるその言葉は切ない。
 そして、曲は絶妙のフーガへと移る。36小節にわたって続くD音の上に構築されたフーガは圧巻である。確固たる信念に満ちて次第にもりあがる終末に、何か音楽に引き込まれてしまいそうな感覚さえ覚える。

◇第四楽章:“すべてを治める神よ、あなたの住まいは麗しい”
 壮大なフーガに続くこの楽章の、何と優しく美しいことだろう。柔らかい光に包まれ、安らかで麗しさに満ちた天の住まいと、そこに召された母への憧憬。ここには、ブラームスの母への想いが込められている。
 管弦楽では、トランペット、トロンボーンが省かれ、独唱は加わらずに合唱のみで歌われる。途中、合唱が二重フーガとなり曲をもりあげるが、雰囲気は終始やさしげで、ホルンの音色と相まって、牧歌的でもある。そして、弦楽器の奏でる旋律が実に美しい。

◇第五楽章:“あなたたちも今は悲しんでいる”
 この楽章は、ドイツ・レクイエムのなかで最後に作曲されたもので、他の6楽章が初演された後に書かれている。ここで歌われるのは、悲しめる者、不安におののく者への慰めで、その点では第一楽章と通じる内容を持っており、ソプラノ独唱と合唱が清純に歌う。ソプラノ独唱が歌うのはこの楽章だけなのだが、ブラームスは管弦楽と合唱の部分を完成させた後、最後にソプラノ独唱のパートを書いたといわれる。合唱と独唱が交互に歌い、ある時は対位法的に交錯し、別々の詞句を歌う。

◇第六楽章:“わたしたちはこの地上に、永久の都は持たず”
 第二楽章と同じく規模の大きな曲で、壮大なフーガがもり込まれている。ここでは、最後の審判と死者の復活、永遠の生命への確信がテーマとなっており、“死は勝利に呑まれた”と歌う合唱は力強い。そして、それを預言し準備するのがバリトン独唱の役目である。
 その後、主を讃美する壮大なフーガが続く。第三楽章のフーガより発展的で、その技法の冴えは古典主義者とも評されたブラームスの面目躍如といえるだろう。

◇第七楽章:“幸いだ、今から後、主に結ばれて死ぬ者は”
 それが大作であればなおさらのこと、曲の最後をどのように締めくくるかというのは、作曲家にとって重要な問題である。ブラームスは、曲の形式や構成に対しては実に周到であった。シンメトリーを考えれば、この楽章は第一楽章に対応する。“幸いだ、今から後、主に結ばれて死ぬ者”と歌うその詞句は、第一楽章の“幸いだ、悲嘆にくれる人”という言葉に回帰するのだ。
 荘重な、しかし穏やかな響きが、大曲を聴き終えようとしている我々を、ゆったりと落ち着いた気持ちにさせてくれる。最後に、第一楽章と旋律的に関連を持った音楽が用意され、ハープの音に包まれながら静かに曲を終える。