第11回定期演奏会


20世紀~いつか来た道


今年2000年はミレニアム・イヤーであると共に、20世紀最後の年。もちろんこれにとらわれる必要は必ずしもないものの、ほんの少しこだわってみようというのが、今回のコピー??
モンテヴェルディ(作曲されて350年強)とバッハ(没後250年)の2大作曲家の作品はGPCでも過去に何度かとりあげてきました。特に大バッハのモテットは今回の2曲で全6曲を一通り歌ったことになります。
その一方、今回初めてとりあげた作曲家として、ピツェッティ(作曲1942-3年)、デュルフレ(1960年)も演奏します。
今日一日だけで300有余年の音の空間を旅していただこうというのが、今回のプログラムです。
その上、ピツェッティはイタリアのいくつもの音楽院の院長を歴任した、特にギリシャ芸術やグレゴリオ聖歌の大家でしたし、デュルフレのモテットはグレゴリオ聖歌を主題にとった曲達で、まさに合唱音楽が「いつか来た道」(そのほんの一部ではありますが)を振り返っていただけるのではないかと思います。
どうぞごゆっくりお楽しみください。

ガーデン プレイス クワイヤ団長 村上 弘

M.Durufré - Quatre Motets


 Maurice Durufréという作曲家をご存知でしょうか?彼は作品のとても少ない作曲家であり、その上作品のひとつひとつに丹精に磨きをかけてからでなければ発表しないという態度をとっていたため、あまりよく知られていないようです。
 デュルフレは、1902年1月11日北フランスのノルマンディー地方に生まれ、パリ音楽院で作曲をデュカスに、オルガンをヴィエルヌに師事した作曲家・オルガニストであり、母校のパリ音楽院では和声学科教授に任命され、後進を導くようになりました。以後、やや地道でこそあれ、作曲家、オルガン奏者、教授として中堅から大家へと、押しも押されぬ地歩を築いてきました。
 慎ましやかな彼は、生涯を通じて、カトリックの音楽家としてグレゴリオ聖歌に強い親近感を持ち、作品にもしばしば引用しています。
 その中のひとつである「グレゴリオ聖歌の主題による4つのモテット」においては、グレゴリオ旋律のしなやかさを保ちながら、これを華やかな旋法的和声で装飾したり、ポリフォニーで取り囲むといった手法に、デュルフレの力量が示されています。10世紀初期頃から完全な形で書き記されたといわれるグレゴリオ聖歌の、本来の神聖さを保ちながら、透明感ある音色で歌い上げられます。(A.M)

J.S.Bach - Motet


 J.S.バッハのモテットは、ドイツ語の聖書とコラールの歌詞をテキストとした合唱曲で、主に1720年代、バッハがライプツィヒ聖トマス教会のカントル(音楽監督)であったころに作曲されている。現存する7曲(5または6曲とする説もある)は、葬儀、追悼礼拝や誕生日等の祝賀が作曲の動機となっている。合唱の様式としては、コラール編曲とフーガが基本となっており、BWV227(5声)、BWV230・231(4声、J.S.バッハの作かどうか疑わしい)を除く4曲が二重合唱(4声×2)である。
 第4番「恐るるなかれ、われ汝とともにあり」は、作曲の動機が明らかではないが、葬儀または追悼礼拝のために作られたと考えられている。全体はイ長調の柔らかい響きに包まれており、大きく2つの部分に分かれている。イザヤ書41章による最初の部分は、2つの合唱が励ますかのように、神の言葉「恐るるなかれ・・・」を交互に歌い、続いてバスが先導して「われ汝を強くせん」と歌い始めると、他のパートも呼応して「汝を強くせん、助けん、支えん・・・」と歌い進んでいく。そして二つの合唱は一つになり、「恐るるなかれ」と力強く締めくくる。すぐに続く第2部は、アルト・テノール・バスが「われ汝を贖えり、汝の名を呼べり。汝はわがものなり!」というイザヤ書43章をテキストとするフーガを展開していく中、ソプラノが「十字架と慰めのコラール」(P.ゲルハルト作)を歌うのである。そして最後に再び「恐るるなかれ・・・」が戻ってきて、神への確固たる信頼のうちに曲が完結する。
 第5番「来ませ、イエスよ、来ませ」も、作曲の動機が不明であるが、これも葬儀または追悼礼拝のためのモテットであろう。ト短調で始まるこの曲は、最初に2つの合唱が不安げに「来ませ、イエスよ、来ませ」と繰り返す。そして、「わが肉体は衰え」「力失せゆく」「辛酸の道」といった言葉が効果的な音楽で彩られ、交互に歌う第1・第2合唱によって不安と緊張が高められていき、全8声が「耐えがたし!」と、心からの声を絞り出す。続く「来ませ、この身を汝に委ねまつらん・・・」から音楽は一転して長調4分の4拍子の明るく軽やかなものとなり、さらに8分の6拍子の、舞曲を感じさせる「汝こそまことの道、真理、また生命にいませば」からは、死の恐れを断ち切った明るささえあらわれている。最後は合唱が一つになり「アリア」と記されたコラール風合唱において、神のもとへ旅立つことへの希望が歌い上げられる。(H.S)

C.Monteverdi - Messa a quattro voci da cappella


 インターミッションのビールとおつまみはいかがでしたか?
 ここがどこかの教会れあれば、パンとぶどう酒をご用意しているところですが、何せサッポロビールなものでして。
 今から2000年ほど前、ユダヤの人々は毎週土曜の安息日にシナゴーグに集まって旧約聖書を朗読したり、詩編を歌ったりしていました。
 キリストの教えを信じていた人達も、同様に誰かの家や集会所でひっそり集会を開いていましたが、こちらは旧約聖書に加えて福音書、つまり新約聖書や使途からの手紙などについて勉強会を開いていたのです。
 私たちGPCのメンバーも毎週木曜日に、ここ銅釜ホールで音楽の勉強会(「練習」と呼んでいます)を行っていますが、とにかくノドは渇くしお腹は減るし。終わった後の飲み会は非常に重要なウェイトを占めております。
 キリスト教徒もまあ似たようなもの(失礼な!!)で、集会の後は皆さん揃って食事会に流れていたそうです。
 ただあの方々が偉かったのは、その食事会の中でもキリストの教えに従い、最後の晩餐でのお言葉通りに、死に行くキリストの血と肉であるところのパンとぶどう酒を分け合っていたことです。
 この習慣が”ミサ”の起源だそうで、ミサを行うことによってキリストの血と肉が自らの内に蘇るというがカトリックの教えです。(確かにバッハ(プロテスタント)のミサ・ブレヴィスには整体祭儀の部分がない!!)
 現在一般的に演奏される”ミサ曲”も、本来の典礼ミサの流れに基づいていますので、通常文のみで構成される場合でも、ユダヤ教の伝統に従った前半部分(キリエ、グローリア、クレド)と、キリストの血と肉を拝領する儀式である後半部分(サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュスデイ)とに分けられます。
 さて、本日演奏いたしますのは、モンテヴェルディ(1567~1643)の現存するミサのうち最後のもので、死後の1650年に出版された四声のミサ曲です。通常文のみで構成された、オーソドックスな構成のミサ曲ですから、もちろんパンとぶどう酒の部分を含んでいます。
 オルガンの通奏低音をつけてバロックスタイルで演奏される事の多い曲ですが、今日は敢えて少人数のアカペラに挑戦いたします。(S.K)

I.Pizzetti - Tre Composizioni Corali


 イルデブランド・ピッツェッティ(1880~1968)は、イタリアのパルマに生まれ、同地の音楽院でテバルディーニのもとで特にグレゴリオ聖歌について学び、卒業後同音学院の作曲教授となった。
 1901年に同院を去ってパルマ歌劇場の指揮者となり、ギリシャ古典を研究する傍ら、ロッシーニ・ベルリーニ・ヴェルディなど抒情的傾向の作曲家に強く影響を受けている。
 Tre Composizioni Coraliは1942年から1943年にかけて作曲された作品で、Iはガブリエル・ダヌンツィオの詩集「アルシオーネ」から、IIとIIIはともに旧約聖書の一節を引用して曲をつけたものである。

I. Cade la sera (夕暮れに)
 夕暮れ。アルヴァニアの峻しい山から月は生まれ、すべてが薔薇色に染まる。迫り来る夕闇のなかに、プラトマーニョ山脈の緩やかにのびた尾根が見え、樹木の茂る高原からは炭焼き窯の荘厳な炎が見える。時折吹くそよ風の中に混じってこおろぎの合唱が聞こえる。
 流れるような旋律に合わせ絵画的に次々と美しい風景が歌い上げられるこの曲は、全体を通して穏やかな雰囲気に包まれている。

II. Ululate (汝ら泣き叫べ)
 1曲目の安らかさとは対照的に厳しい緊張の漲るこの曲は、旧約聖書の一説から取られている。前半部には、倫理的節制を行わなくなったものに下されるであろう「主の日」の刑罰の恐ろしさが描かれており、その刑罰はいわゆる「最後の審判」のことである。後半部は罪を犯し神の言葉を忘れてしまった哀れなものにも救いの手をさしのべてくれるように父たる神の愛と哀れみに訴えかける預言者イザヤの祈りである。この曲は時の教皇ピオ12世に捧げられたといわれている。

III. Recordare, Domine (主よ、おぼえたまえ)
 エルサレムの陥落によってバビロン捕囚の憂き目に遭い、カルデヤ人の支配によって艱難辛苦を強いられることになったユダヤ人達が自分たちの処遇を嘆き、主の顧みを求める情景が旧約聖書の言葉にのってつづられていく。
 冒頭のテノールによってはじまり、やがては大きな波のように切々と訴えられる「主よ、おぼえたまえ」の詞につづき、悲惨な球状が描かれるが、それはいつしか苦難の原因が自らの罪にあることを認め神に告白し、神のもとへ帰る決意へと変わっていく。そして後半の美しい旋律によって神の許しを請う深い祈りが歌われるのである。
 日本の紀元2600年の祝典交響曲も作曲しているピッツェッティであるが、今回演奏するような深い信仰による自省の念に満ちた曲が1942年から1943年にかけて書かれた意味を、時代背景とともに、いま一度考えてみてはどうだろうか。(S.T)